「なんでも持ってる人」への、あの頃のまなざし
学生の頃、クラスにいませんでしたか?
勉強もできて、運動もできて、しかも顔もいい人。
発表会では堂々としていて、休み時間には周りに人が集まる。
そういう人を見るたびに、
「ずるいな」って、心の中でつぶやいていました。
自分がどれだけ頑張っても、
最初から差がついているように感じてしまうんですよね。
努力で届く部分と、どうしても届かない部分
もちろん、外から見えない努力をしている人もたくさんいます。
誰より早く練習して、誰より遅くまで残って勉強して。
そういう積み重ねがあってこそ、輝いて見えるのかもしれません。
でも一方で、
「生まれ持ったセンス」や「顔立ち」「声のトーン」など、
どう頑張っても努力では埋まらない差もあります。
この現実に、何度もため息をついたことがありました。
大人になっても、羨ましいと思う瞬間がある
社会人になれば、
外見や能力であからさまに比較されることは減ります。
でも、SNSやメディアを通して、
“完璧に見える人”は今もたくさん目に入ってくる。
音楽の才能があって、
芸術的なセンスもあって、
しかも外見まで美しい。
「いや、もうそれは神様の贔屓では?」と、
心の中でつっこみを入れたくなることもあります(笑)。
“憧れ”は、嫉妬と紙一重
ただ、その「ずるいな」という感情も、
少し角度を変えれば“憧れ”なんですよね。
自分もそうなりたいという気持ちが、
悔しさの裏に隠れているだけで。
実を言うと、私自身も、
そんな憧れの存在になりたくて、
見た目にはかなり気をつかっているし、
デザイナーとしての表現力も磨いてきたつもりです。
誰かに羨まれるような存在になりたい――
それは、負の感情から生まれた、
ポジティブなモチベーションなのかもしれません。
「不完全だからこそ、美しい」
最近は思います。
完璧な人よりも、どこか抜けていたり、
必死に努力している人の方が、
見ていて心が動く、と。
人は「持っているもの」で評価されがちだけれど、
本当は「持たないもの」とどう向き合うかに、
その人らしさが表れるのかもしれません。
能力が高くて外見も良い人は、たしかにずるい。
でも、不完全な自分を愛せる人は、
もっと強くて、美しいのかもしれません。
それではまた明日──
SOWN 代表
片倉