何者かになりたい、という焦り
私たちはいつからか、
「何者かにならなければいけない」という感覚を
当たり前のように抱くようになりました。
肩書き、役職、フォロワー数、年収。
自分を説明できる“わかりやすいラベル”を持っていないと、
どこか不安になる。
特に若い頃は、
「まだ何者でもない自分」に耐えられず、
早く“名前のつく存在”になろうと焦ります。
何者かになるほど、窮屈になることもある
でも不思議なことに、
何者かになればなるほど、
その肩書きに縛られていく感覚も生まれます。
・この立場なら、こう振る舞うべき
・この仕事をしているなら、こう思われたい
・この年齢なら、こうあるべき
「自分らしさ」だと思っていたものが、
いつの間にか“役割”にすり替わっている。
それに気づいたとき、
少し息苦しさを感じる人も多いのではないでしょうか。
「何者かにならない」選択
歳を重ねるにつれて、
「無理に何者かにならなくてもいいのかもしれない」
そう思える瞬間が増えてきました。
誰かに説明しやすい自分であることより、
自分が納得できる時間を過ごしているかどうか。
評価される肩書きより、
日常の中で感じる手応えや、心の静けさ。
“何者かにならない”というのは、
諦めではなく、
むしろ余計な期待や比較から降りるという成熟なのかもしれません。
肩書きがなくても、ちゃんと人は残る
不思議なもので、
肩書きや役割を手放したあとに残る人間関係のほうが、
案外、深かったりします。
何者かとして扱われていたのではなく、
「その人自身」として関わっていたことに気づくからです。
何者かでいようとしない人のほうが、
言葉も、態度も、少し柔らかい。
何者かでなくても、生きていていい
何者かにならなくても、
今日をちゃんと生きていればいい。
目の前の仕事を丁寧にこなすこと。
誰かに優しくすること。
自分の感性をすり減らさないこと。
それらは肩書きにはなりませんが、
人生の質は確実に上げてくれます。
“何者かにならない”という選択は、
自分の人生を、
他人の物差しから取り戻す行為なのかもしれません。
それではまた明日──
SOWN 代表
片倉